3 額田の鎌倉(かまくら)・室町(むろまち)・戦国時代
  (1)鎌倉・室町時代のころ
 鎌倉時代になると,三河国(みかわのくに)足利(あしかが)()にゆかりのある人たちが代々,三河の(しゅ)()の役をつとめました。そして,その下に家来をたくさん(したが)えていました。
 したがって,このころの額田も足利氏と深い関係があります。足利氏の家来であり,足利(ばく)()(しつ)()(そば)役人)をしていた(こう)氏は,額田郡比志賀(ひしが)(ごう)(現在の()近郷(ぢかごう))を以前からもっており,この地域を(りょう)()としていました。
 また、片寄(かたよせ)天恩(てんおん)()は,1362年((じょう)()元年)足利(あしかが)義満(よしみつ)が,家来に命じて作らせた寺であると伝えられています。
 このように,鎌倉や室町時代の中ごろまでは,足利氏とその一族の(せい)(りょく)が強かったようです。
 また,足利氏以外にも,(ほっ)(きゅう)では山下(やました)氏,(かた)()では(あま)()氏や(あそ)()氏などが勢力をもっていました。

  
  天恩寺の仏殿
   額田町の鎌倉・室町・
  戦国時代の様子について
  調べてみましょう。






守護
 国ごとにおかれ,軍事や(けい)(さつ)の仕事をしました。


天恩寺(片寄)
 仏殿(ぶつでん)および山門は国の重要(ぶん)()(ざい)で,室町時代の建築(けんちく)の様子を伝えています。









天恩寺の山門






奉公衆
 将軍に直接仕える武士(ぶし)のこと。室町幕府の(ちょっ)轄軍(かつぐん)

段銭
 田畑の広さによって(おさ)める税金のこと。(りん)()()せられました。
        (ほっ)(きゅう)の山下氏
 保久には,山下氏がいました。山下氏は,(へい)()出身の一族で1230年((かん)()2年)ごろ保久に来たと考えられています。三河では4本の指に数えられるほど勢力のある家がらでした。また,奉公(ほうこう)(しゅう)として,直接(しょう)(ぐん)に会うことができ,室町幕府が治める領地の管理にもあたっていました。そして,交代で京都の(けい)()もつとめ,戦いの時には,そのまま動員されるようにもなっていました。1456年(康正(こうせい)2年)に段銭(たんせん)をはらったという記録が残っています。その後,保久城主としておよそ230年間続きましたが,9代(しげ)(ひさ)(つぶら)(がわ)合戦(かっせん)において(まつ)(だいら)信光(のぶみつ)によってうたれ,ほろびました。(はか)は,万福(まんぷく)()裏山(うらやま)にあります。
    山内氏の来住(らいじゅう)
 この時期の額田町は,他にもいろいろな勢力がいました。その一つが山内氏です。
 山内氏は,1285年(弘安(こうあん)8年),7代目の季俊(すえとし)が日近郷にかくれ住み,その()(そん)が足利氏や奥平(おくだいら)氏などに仕え,柳田(やないだ)に勢力をのばしていきました。

 
山下氏の墓               麻生松平氏の墓
  (2)戦国時代の様子


応仁の乱(1467〜1477)
 将軍(しょうぐん)()や有力な守護(しゅご)(だい)(みょう)のあとつぎ問題が原因で起こった争い。京都を中心に約11年間も続きました。

戦国大名
 戦国時代に各地に生まれた大名。武田氏や今川氏などのように守護(しゅご)大名がそのまま戦国大名になったり,斎藤(さいとう)()や織田氏のように守護を(たお)してなりあがった大名がありました。
 応仁(おうにん)(らん)以後,争いが日本全国に広がりました。戦国(せんごく)大名(だいみょう)が登場し,勢力(せいりょく)を広げようと各地で争いを続けました。この時代を戦国時代といいます。
 この時代,額田では(おく)(だいら)()勢力(せいりょく)をもっていました。しかし,額田の周辺には,今川(いまがわ)氏,(まつ)(だいら)氏,織田(おだ)氏,(たけ)()氏などといった大きな力をもった戦国大名がたくさんいました。そんな中,やや勢力の小さい奥平氏は,力の強い大名たちの争いにまきこまれながら,生き残るためにいろいろな努力をしました。
()(かわ)周辺の戦国大名
奥平氏について
 1375年(天授(てんじゅ)元年(がんねん)),初代貞俊(さだとし)が関東地方から三河地方に来て間もなく,額田(ちょう)(いき)にも根をおろし,勢力を広げました。三河周辺の戦国大名と複雑(ふくざつ)主従(しゅじゅう)関係(かんけい)を結びながら少しずつ力をのばしました。
額田町の戦国時代のおもなできごと
 1478( )
 1533
 1548( )

 1556

 1560
 1562( )
 1570( )
 1573

 1575( )
 1576( )

 1589( )
 1590
 奥平(おくだいら)貞昌(さだまさ)が日近城を築く。
 このころ久保城が築かれる。
 奥平(おくだいら)貞勝(さだかつ)の子貞能(さだよし)が人質として今川氏に
 送られる。
 日近の戦いが起こる(2月)。
 雨山の戦いが起こる(8月)。
 このころ滝山城が築かれる。
 大代口(おおじろくち)の戦いが起こる(11月)。
 奥平貞能の子仙丸(せんまる)が武田氏の人質となる。
 滝山の戦いが起こる(8月)。
 仙丸が殺される(9月)。
 長篠(ながしの)の戦いが起こる。
 奥平(おくだいら)信昌(のぶまさ)亀姫(かめひめ)徳川(とくがわ)家康(いえやす)の子)と
 結婚(けっこん)する。
 片寄村(かたよせむら)検地(けんち)がおこなわれる。
 奥平氏が関東に移される。
 竹下氏の関東行きを止めるよう村人が願い
 出る。
 奥平氏は,はじめ,今川氏の勢力に入っていましたが,時には勢力の強い織田氏に味方したり,武田氏の勢力がのびるとその中に入るなど,状況(じょうきょう)を見ながら味方になる大名を次々と変えていきました。また,(てき)からせめられたときのために額田の各地に()(ぢか)(じょう)久保(くぼ)(じょう)といった山城を作りました。さらに,自分の縁者(えんじゃ)を戦国大名の人質(ひとじち)として送るということもしました。
 (つく)()や額田に勢力をもっていた奥平氏は,このように生き残る努力をするとともに敵対する勢力と戦いをすることもありました。そのとき,額田町が戦場になった戦いもいくつかあります。今川氏や武田氏などと戦った「日近の戦い」「雨山(あめやま)の戦い」「滝山(たきやま)の戦い」の三つの戦いは特に有名です。このようにして奥平氏は少しずつ力をつけていきました。
 では、額田町に(きず)かれた山城や額田町が戦場となった戦いの様子についてくわしく調べていくことにしましょう。

  (3)山城をつくる武士たち
 戦国時代は,額田町でも,その土地に住んで勢力(せいりょく)をはっていた武士(ぶし)たちが,あちこちにいました。その武士たちは,(てき)からせめられたとき,自分たちを守るために城を(きず)きました。額田町に築かれた城の多くは,山城といって山の頂上(ちょうじょう)中腹(ちゅうふく)(おか)の上にあり,敵からせめられにくいようくふうされていました。


   武士( )たちが造った山城
  には,どんなくふうがあ
  っただろうか。




堀切
 地面を()って切り通したからぼり


日近城あと


        ()(ぢか)(じょう)について
 日近城は,戦国時代の(とりで)で,1478年(文明(ぶんめい)10年)に奥平(おくだいら)貞昌(さだまさ)奥平(おくだいら)信昌(のぶまさ)祖父(そふ))が築いた山城で,城山は標高(ひょうこう) 275mです。山頂(さんちょう)()(きん)には,今も数か所に曲輪(くるわ)(あと)と思われる平らなところと堀切(ほりきり)らしきあとが見られます。山のふもとには奥平氏の()(だい)()であった広祥院(こうしょういん)があり,その周辺に武家屋(ぶけや)(しき)あととか奥平氏の(はか)も残っています。
 この時代の武士たちは,戦いの時,敵がせめにくく,たてこもったとき敵からの攻撃(こうげき)を防ぎやすいように,山城をつくりました。この山城の築かれた山一帯も,(つく)()(ともえ)(やま)付近から流れる乙川(おとがわ)切山(きりやま)付近から流れる毛呂(けろ)(がわ)との合流点にあり,(はい)()には堀切をへだててさらにけわしい山となっています。そのため,敵から守るのによい天然の要害となっています。このように額田町にはいろいろな(しろ)あとがありますが,日近城は戦国時代の山城の典型的(てんけいてき)なものです。


   山城には,いろいろな
  くふうがしてあったんだ
  ね。

 
 奥平(おくだいら)()の勢力分布(『中津藩史』をもとに額田に関係する部分を加筆して作成しました。)





滝山(たきやま)(じょう)(亀穴城)あと

久保城(宮崎城)あと
 この日近城の他にも,保久(ほっきゅう)(じょう)下山(しもやま))や久保(くぼ)(じょう)宮崎(みやざき))など額田町には,山城がいくつかありました。
   額田町の山城(やまじろ)(やかた)分布(ぶんぷ)()