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高隆寺跡(男川学区探訪)

 高隆寺.jpg根本中堂礎石.jpg 男川学区、高隆寺町には、地名の由来となった高隆寺(写真)があります。現在の高隆寺のお堂は、江戸時代に建て直されたされたものです。徳川家康に朱印状をもらい、1603年(慶長8年)に高隆寺としました。

 高隆寺の西隣にある日吉神社(明治の神仏分離により高隆寺から分かれた)の脇に、西に向かう山道があります。この道を登っていくと道根往還(どうねおうかん)と呼ばれた山道にでます。道根往還は、東公園の南駐車場のあたりから、山の尾根を伝い須渕町から作手・新城方面に続く道でした。

 この道根往還にでる前に、案内表示に従い左に折れると、山中の平らな場所にでます。よく見ると木々の間に四角い平らな石(写真)が並んでいます。ここが高隆寺跡です。発見された瓦から、この寺院跡は平安時代終わりころのものと考えられおり、高隆寺の根本中堂跡と言われています。石は柱の礎石で、やく21m四方に規則正しく並んでおり、地方ではあまり例のない大きさです。三河五山のひとつとして知られた高隆寺の威容が偲ばれます。

 寺伝によると高隆寺は、聖徳太子の開創、行基の中興、弘法大師の開基とされており、足利尊氏も伽藍を造営しました。戦国時代、日近城主奥平貞友の襲撃をうけ焼失したといいます。

神明宮古墳(男川学区探訪)

 神明宮.jpg神明宮古墳.jpg 丸山町に神明宮(写真)があります。この神社の境内には、2つの古墳があります。西側の鳥居をくぐった左手にあるのが神明宮2号古墳、参道の一番奥にあるのが神明宮1号古墳(写真)です。

 神明宮1号古墳は、6世紀後半に作られたと考えられており、直径20m、高さ3mの円墳です。石室は長さ10mで2つの部屋に分かれ、奥の部屋は特に大きく、長さ5.5m、高さ3mと西三河地方の古墳の石室としては最大級です。この石室には、べんがらという赤色の顔料が塗られています。昭和3年の調査のときには、刀のつば、矢じり、馬具、耳かざり、玉、須恵器などが出土しました。

 神明宮1号古墳は、神明宮の西側にある丘陵、経ケ峰にある5世紀ごろにつくられた前方後円墳、経ケ峰1号墳とともに丸山町一帯を支配した豪族の墓と考えられています。

 村上遺跡や村上古墳、神明宮古墳、経ケ峰古墳など、丸山町一帯では古代の人々の墓や生活の痕跡が多く見つかっています。それは、この地が古くから住みやすい場所であったことを示しています。

 

村上遺跡・村上古墳(男川学区探訪)

   村上古墳.jpg丸山遺跡.jpg 丸山町にある畜産総合センターの東、中央総合公園に登っていく道の東側に草地があり、この奥に史跡の立札が立っています。このあたりが、村上遺跡、村上古墳です。

 いまは草が生い茂っていますが、良く見ると、コンクリートで固められた、住居の柱跡(写真)があります。村上遺跡では、昭和23、24年の発掘や昭和60年の発掘で、今から5~6000年前、縄文時代の住居跡が3軒見つかりました。そのうち1軒からは、30歳くらいの女の人の骨が見つかっています。また、遺物としては、9000年ほど前の押型文土器から1900年ほど前(弥生時代)の土器までが出土しています。

 草地の北側、少し盛り上がっているところに、鉄の柵が見えます。これが村上古墳石室の入り口(写真)です。村上古墳は、現存している部分直径17m、高さ2mの円墳で、石室は全長8.7mです。盗掘されていたので詳しいことは分かりませんが、古墳時代(6世紀)につくられたものと考えられています。石室入り口は開口していて、柵はありますが、中をのぞくことはできます。

紫雲寺(男川学区探訪)

DSC_0152.JPG 大平町辻中、字辻重に辻重山・紫雲寺というお寺があります。この寺は、天台宗、阿弥陀寺と称していましたが、天正9年(1581年)、住職の全教という方が、本願寺住職11代目顕如上人へ帰依し、浄土真宗本願寺派に改宗し、寺号を紫雲寺としました。

 明治の学制発布により、明治6年(1873年)、紫雲寺内に学校がつくられ、5月6日に開校式が行われました。義校と呼ばれたこの学校が、男川小学校の始まりです。明治8年に字市木に、明治43年に字中道(現在の場所)に移転しましたが、今年の5月6日で満140年を迎えた男川小学校のスタートはここにあったのです。

大平一里塚(男川学区探訪)

一里塚.jpg

 男川小学校の南、大平郵便局の前の道(これが旧東海道です)を西へ少し進むと、左側に大きな榎の木があります。これが大平一里塚です。

 江戸時代になると、東海道などの街道が整備されました。東海道は江戸と京都をむすぶ街道で53の宿場がつくられました。岡崎もその一つです。街道には、旅がしやすいように一里(約4Km)ごとに一里塚がつくられ、旅人の目安となったり、休憩場所となったりしました。

 大平は、岡崎宿と藤川宿のちょうど中間点でした。もともと一里塚は道の両側に2つありましたが、昭和3年、道路を直すため、北側の塚が取り壊され、南側だけが残りました。1代目の榎は戦後の台風によりたおれてしまい、現在は2代目です。

西大平藩陣屋跡(男川学区探訪)

 

  大平陣屋.jpg

男川小学校のすぐ西側に西大平藩陣屋跡があります。西大平藩は、「大岡裁き」で有名な、江戸町奉行、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の領地だったところです。

 

大岡越前守忠相は、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗のもと、江戸町奉行となります。そして、目安箱の設置、小石川療養所の設置、いろは47組の町火消しの整備など、江戸町民の生活向上に取り組みました。また、株仲間の組織化や金銀相場の改訂や貨幣改鋳などの物価安定策にも取り組み、幕府の財政の立て直しにも取り組みました。落語や講談、テレビ番組での「大岡裁き」と呼ばれる人情判決でもおなじみです。

その大岡忠相は晩年、その功績により加増され、1万石の大名になります。そのとき、西大平村に陣屋が設置され、西大平藩となりました。大岡忠相は3年後になくなり、この地を訪れることはありませんでしたが、西大平藩は幕末まで続きました。

陣屋は明治維新で廃止されましたが、藩主をしたう藩士や領民の希望で、陣屋跡が保存され、大岡家別邸として復活しました。現在では史跡として整備され、地元住民の手で管理されています。

 

 

 

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