2008年8月アーカイブ

親子奉仕作業は中止

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本日24(日)の親子奉仕活動は中止。

今年は残念ながらなしとなります。9月上旬の朝の帯時間を

利用して、子どもたちで草取りをします。

本日の親子奉仕活動について

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本日23(土)のPTA親子奉仕活動は明日24(日)に延期。

明日が中止の場合、本年度は実施いたしません。中止決定につい

ては午前7時。ホームページ、携帯配信メール、学級連絡網で連絡

をいたします。

なお、PTA合同委員会につきましては本日実施いたします。

永安寺跡(長圓寺跡)

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R0010907 中島町町後付近 長圓寺跡の稲荷堂の林(2007.8)

「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

永安寺は,初代江戸町奉行,板倉勝重が幼少のころ,修行したと伝えられる寺である。しかし,後に長圓寺となり,現在に至っている。板倉勝重の墓は長圓寺にある。

R0010908 稲荷堂(2007.8)

稲荷堂は長圓寺が管理している。

中島城跡

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DSC09729 中島町後屋敷・馬取池付近(2005.4)

「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

松平伊忠(まつだいらこれただ)が城主の時,城を乗っ取ろうとした吉良義昭(きらよしあき)軍と,城を取り返そうとしていた松平好景軍が戦いを起こした(善明堤の戦い)。その後,中島城は,吉良軍のものとなったが,家康の家来が義昭をせめ,そのときに城は炎上した。これからあと,中島城はなくなる。

 

現在では何も残っておらず,資料もない。この辺りではなかったかと推測されているのみである。

 

「六ッ美風土記」より

「現在の中島町の中央に「巴城」とよばれる小字名がありますが(後屋敷にある由良城ともいわれる)ここが中島城のあとであります」

 

「六ッ美村史」より

「大字中島字巴城にあり,目下田畑となりて其の形跡更になし」

※巴城は羽城ともいわれ,「六ッ美村史」の『六ッ美村大字別地字名調』の記述には,『大字中島字井龍』に羽城が含まれている

板倉好重戦死地の碑

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R0010913 中島西町三丁目にある戦死地の碑(2007.8)

「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

板倉好重は,深溝城主 松平好景の家臣で,善明堤の戦いの時に中島城を,吉良氏から取り戻そうと出陣した。中島城を吉良氏の手から奪い返して,本拠地である東条城まで追撃したが,途中の善明堤で待ち伏せにあった。主人の松平好景は討ち死に,板倉好重も傷を負い,味方のいる中島城まで戻ろうとしたが,途中で力尽き,この碑が建っている辺りでなくなった(1561年・永禄4)と伝えられている。

羽角山

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標高118メートル

羽角の名前の由来についてはっきりしたことは定かではないが,羽角の村名は蘇美郡(幸田町須美)の北端にあたるところから,端蘇美の転化ではないか。また,幡豆郡の端隅,吉良の端隅ではないかといわれている。

R0010093 参道に88カ所の石仏堂(2007.7)

R0010098展望台(2007.7)

R0010099 展望台から占部を望む(2007.7)

R0010423 占部の田園からみた羽角山(2007.7)

学校から最明寺 徒歩15分

最明寺から展望台 徒歩15分

展望台から最明寺(西まわり) 徒歩25分

小園神明社

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「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

御祭神は,豊宇気姫命(とようけひめのみこと)である。当地は三河国河内郷御園であり,大神宮へ御供米を供する指定地である。1040年(長久元年)9月15日豊宇気姫命を祭る。1504年(永正元年)中島城主由良甚太郎本殿を造営。また,徳川家康が漁猟の折に時々参拝していた地であり,1602年(慶長7)神領拾石を寄付される。

DSC03243

御手洗い池は,むかし大沼で,岡山村の北,鎧ヶ淵を経て海に通じたので,近隣の御供米をこの地から舟に積んで伊勢神宮に納めた。また,この池は明治の初めころまで5~6町歩もあり,池の縁には,蛇柳,蛇松といわれる2本の大きな松があった。

当社は,浮島の宮といわれ,近隣諸国にその名高く,どんな洪水でも地内に浸水したことがなかったという。むかし,社内の竹で簾を造り,大神宮へ献じた。氏子並に近隣の人々の崇敬厚く,1919年(大正8)郷社に昇格する。

「小園池の主の話」

むかし,むかし,小園池に住むなまずが広田川に移りたがっていた。老人が広田川へ移してやると,なまずはお礼にお酒の作り方を教えてくれた。老人はお酒を売って金持ちになりました。

占部用水

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「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

R0010074 占部用水の碑(2007.7) 占部川神社境内内

占部の土地は,卜部日良麿(うらべひらまろ)によって開拓されたが,農民は日照りや洪水の害で苦しんでいた。そんな農民の苦しむ様子を見て,郷士,野本新十郎と渡辺弥蔵はいつも心を痛めていた。そこで二人は,「もしこの土地に水が得られたら,田や畑が増え,穫れ高も多くなって,農民のくらしが楽になる」と思い,相談して用水を作る決心をした。

計画は,矢作川と男川が合流する天白で水を取り,この占部までの約8㎞の用水路を作ることだった。工事が始まると,農民たちは大反対した。土地が減る,お金がいる,用水が壊れて洪水が起こると。

そこで二人は,替え地を与える,金は集めない,用水は掘り割りにすると,農民たちに言い聞かせて工事を進めた。そのために,自分の家や土地を全部売ってしまった。

工事は,1603年(慶長8)に完成し,用水使用の許しをもらったが,家族とも別れ,財産をなくし,生活はめちゃくちゃになって,最期はあわれな死に方をしたということである。

R0010079 占部川神社(2007.7)

「悠紀の里3訂版」より

「この神社は,野本新十郎と渡辺弥蔵の二人がまつられています。1624年(寛永1)にはできていたようです。」

※用水の使用をゆるす書状

「この用水は,占部4か村が使えるものとする。なお,この村以外の村が水を使いたいときは,ひとつの村につきお金500文を4か村にわたすこと 慶長8年4月15日」

R0010732 中村町川田の橋からみた占部川(2008.8)

八幡社

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DSC09849 (2005.5)

「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

創始時期は,昌泰年間といわれている。源氏の家来がこの地に落ちのび,神社をつくったといわれている。應永5年中島与五郎が社殿を改築したと伝えられている。それ以来,子孫がそれを引き継ぎ,社殿を整えていった。

DSC09894 (2005.5)

地内に中島耕地整理の碑(1900年4月起工 1904年5月竣工)がある。

全国に率先してこの事業を計画し,石川・静岡の両県の先進地を視察して発起,事業に取り組んだ。それを記念して建立された石碑は,初めは中島町薬師(現在の碧海信用金庫駐車場)に建てられたが,1964年(昭和39)頃,石碑の前面道路(県道)拡幅のため,また同時に側道も拡幅されたため,現在の位置(八幡社敷地内)に移転され現在に至っている。

三の山古墳

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DSC00063 西尾市下羽角地区(2005.5)

「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

今からおよそ1300年から1400年前に作られたものであり,規模や石の大きさなどは,羽角山古墳群の中では最も大きいものである。盗掘のために旧状をとどめていないが,現在は奥行き12メートル,高さ3.5メートルである。形は円墳であるが,南端部分が少し土が欠けている。内部施設は,南に開口する横穴式石室で,使っている石の大きさや内部の広さなど,羽角山古墳群のなかでは最大の古墳である。

 

「悠紀の里3訂版」より

羽角山から長円寺山までの小高い所に,数多くの古墳が見つかっています。その数は,大小合わせて90ほどあります。どれも,1300年から1400年前の古墳で,直径10~15メートルのまるいおはかです。三の山古墳は,規模が大きく,2メートルうぃこえる大きな石を使って作られています。ひとつだけはなれてつくられていることから,多くの古墳の中でも,特別な人のお墓と考えられています。

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安藤川改修の碑

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P102安藤川改修記念碑(2008.1) 安藤町川田付近(2008.1)

「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

安藤町安藤川沿いにある2つの記念碑。岡崎市天白あたりから,六ッ美地区の田畑の小悪水を集め,悪水路(安藤川)となり矢作古川に流れている。1882年(明治15)の水害のあと,県では,この難所を開拓するために用悪水路の改修をさせた。これが,安藤川第一期の改修工事であり,このときから「野川」を「安藤川」と改名。

1898年(明治31)になり,大改修の協定ができ,安藤川悪水普通水利組合ができた。これ以来,安藤川の改修は着々と進められ,1900年(明治33)に工事施工,1901年(明治34)に竣工した。1911年(明治44)にこのような大改修工事の竣工したことを,後の世に伝えるために,安藤地内に記念碑を建て,工事の沿革を記し,功績者である杉浦定吉をたたえた。

もう一つは,昭和になってからの改修工事の記念碑。安藤川普通水利組合は,1930年(昭和5)事務所を中島町に移して,安藤川改修を内務省に陳情した。その結果,県土木部直営で1943年(昭和18)に工事着手。1944年(昭和19),三河大地震に遭遇,また第二次世界大戦が身辺に拡大し,人命は奪われ国情は悲惨この上もなかった。しかし,農兵隊等の応援により工事を続行した。震災被害状況を建設省に陳情した結果,従来の計画を大幅に変更したものの昭和26年幹線第一期工事を完成する。1952年(昭和27)安藤川排水土地改良区と組織を変更。1961年(昭和36)伊勢湾台風の復旧工事である,幹線第二期工事が施工される。記念碑は1966年(昭和41)に建立された。

西尾軽便鉄道その4

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その2で紹介したように,西尾軽便鉄道の岡崎新駅から西尾駅までは8つの駅がありました。六ッ美地区には中島駅と停留所として占部駅が設けらました。

R0015679 中村町西浦付近から南方面を撮影(2007.10)

この写真の左側の畑付近に停留所があったそうです。中村町地内では線路跡は畑や空き地として残っています。西尾軽便鉄道には占部駅のほか久麻久駅(現在の西尾市民病院付近)と三和川駅が停留所として設られました。しかし,利用客がそれほど多くなかったようで,1915年(大正4)に廃止されたということです。

IMGP5258 中村町大坪付近から北方面を撮影(2007.10)

写真中央の畑が線路跡ということです。線路跡の畑を「電車畑」と呼ぶこともあるそうです。ここから南の線路跡は近年耕地整理が行われたため,現在ではほとんど確認することができなくなってしまいました。

 

「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

・西尾軽便鉄道の開業当時の機関車はイギリス製の4両,車輌は日本製の2輌連結 2等車(定員18名)計7輌,3等車(定員25,54名)

・「当時の地方鉄道では最新式で会社の自慢の汽車であった」

・郵便車14輌

・車輪は前後に8個,座席は両窓側にあり線路に平行していた

・車内照明は石油ランプ→アセチレンガス→蓄電池に改良

西尾軽便鉄道 その3

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1943年(昭和18)に廃線になった西尾軽便鉄道でしたが,1951年(昭和26)岡崎駅前から福岡町までの2.5㎞が名古屋鉄道岡崎市内福岡線として復活しました。これには,西尾軽便鉄道の復活を望む,六ッ美町,福岡町の強い要望があったということです。残念ながら,福岡町駅以南に線路が再び通じることはありませんでした。

さて,現在の西尾軽便鉄道跡はどうなっているのでしょうか。旧岡崎新駅駅舎はすでに解体され,岡崎駅前の再開発によって当時の線路跡をたどることもできなくなってしまいました。しかし,旧岡崎新駅から旧土呂駅までは,名鉄バス岡崎駅から福岡町駅の専用バス路線として今も使用されています。

R0015795 旧土呂駅(2007.11)

写真右のタンクの見えるところは,太田油脂株式会社福岡工場です。副読本「悠紀の里」に,

「昔の六ッ美は,菜種作りがとてもさかんでした。今から95年ほど前から,作っていたそうです」

「六ッ美の菜種のほとんどは,この工場で食用油に加工されました」

と記述されています。

 R0015669 国正町上川田の米津工業所付近から南方面を撮影(2007.11)

国正町から中村町まで線路跡は市道として利用されています。

この場所をふり返って見ると次の写真になります。

R0010152 国正町上川田の米津工業所付近から北方面を撮影(2007.7)

線路は,道路を左へ曲がらずにそのまま真っ直ぐ進んでたということです。

近くのおじいさんに,かつて占部川がこのカーブミラーの先の畑の向こうに流れていて,橋の橋脚のコンクリートの一部がまだ残っているということを聞くことができました。

R0018178

この写真の畑のすぐ向こうにかつての占部川が流れていたということです。占部川の河川改修によって現在の流路になったそうです。

西尾軽便鉄道その2

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「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

軽便鉄道の路線

西尾軽便001

駅のあとにある今のバス停2007年10月 

IMGP1664

上の写真は現在は駐車場になっている旧中島駅から西尾方面バス停を撮影したもの(2007.10)。

下の写真は碧海信用金庫前から岡崎方面バス停を撮影したもの(2007.8)。

 

「悠紀の里3訂版」より

わしが子どものころ,中島には,小さな列車が走っておったんだよ。力がなく,ゆっくり走る列車で,西尾の八ツ面の坂に来ると止まってしまい,乗っていた人たちがおりては,列車をおしたこともあったそうだ。また,初めのころの列車は,石炭をたいて走っていたので,火の粉がかやの屋根にとび,火事になったこともあった,と聞いたことがあるな。あのころは,みんなどこに行くのにも,歩いていったもんだ。わしら子どもは,ほとんど列車に乗ることはなかった。たまに祭りでお金をもらっても,おかしを買いたくて,列車に乗らずに岡崎や西尾まで歩いていったもんじゃよ。その後,じょう気機関車から電車にかわり,利用する人々もふえていったようだ。悠紀斉田や岡崎の菅生神社などのお祭りには,臨時列車も出て,ようにぎわったもんだよ。

西尾軽便鉄道その1

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「悠紀の里3訂版」より

昔,この六ッ美地区は交通の便が悪く,人々は乗合馬車や,歩いて岡崎や西尾に出かけたり,荷物は荷車で運んだりしていました。一度に速くたくさんの物を運びたい,三河の中心である岡崎と行ききできるようにしたいと考え,西尾の人たちが中心となって,鉄道をつくりました。

 

軽便鉄道の歩み

「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

軽便鉄道 岡崎の交通
1910年 西尾軌道株式会社設立
発起人は西尾の旧家 鳥山伝兵衛
協力者 岩崎弥助(西尾町長)
尾崎久治 鳥山武平
鈴木友治郎 水野芳太郎
六ツ美南部 鍋田恒雄 鶴田勝蔵
※ 出資協力者
西尾25人 福岡5人 幡豆1人
岡崎13人 六ッ美2人
・出資金(15万円)
1889年 東海道本線開通
馬車鉄道開通(殿橋~岡崎駅間)
1911年 開通式(10.29)
西尾~岡崎新駅間13.3㎞運転開始
1日10往復 片道50分
 
1912年 西尾鉄道株式会社と社名変更
西尾から平坂まで延長計画が出る
資本金の増額(30万円)
職員数60名
1912年 馬車鉄道が電車に変わる。(岡崎電気軌道)
1915年 吉良・吉田線開通(9.3㎞)
出資協力者
西尾70人 額田17人
岡崎33人 碧海20人
幡豆43人
 
1916年 貨物輸送が盛んになる
主な貨物
石炭 石灰石 木材 豆類 煉瓦
肥料 玄米 セメント 乾まゆ
雑穀 鮮魚 苗木
1916年 岡崎市になる(7.1)
  1923年 愛知電気鉄道 東岡崎まで開通
市内電車 康生~井田 井田~門立
1926年 西尾鉄道は愛知電気鉄道に合併し,西尾線となる
電化はできなかった
 
  1927年 岡崎電気軌道,三河鉄道に合併される
1929年 西尾線電化工事完成 1929年 上挙母~三河岩脇間 電車開通
  1935年 愛知電気鉄道は名岐鉄道と合併し名古屋鉄道株式会社となる
1943年 西尾線 西尾~土呂間の営業を中止
 
1951年 岡崎駅~福岡町間 電車再開  
  1954年 市内電車複線化
  1961年 岡多線着工
  1962年 岡崎市内電車廃線
  1973年 名鉄挙母線廃線
  1988年 愛知環状鉄道営業開始

井戸から簡易水道へ

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「六ツ美南部小学校の教育-H6地域素材の教材化-」より

昭和37年ごろまで,六ツ美南部ではどこの家でも井戸が使われていた。近くに矢作川などが流れており,豊富な地下水源に恵まれ,比較的容易に井戸を掘ることができた。使われる井戸の様式も「つるべ」から「手押しポンプ」,「手押しポンプ」から「モーターポンプ」へと移り変わってきた。六ッ美南部に「モーターポンプ」の井戸が普及してくると,後屋敷では「どうせ井戸の改善に金を使うなら,共同で井戸水をくみ上げ,水道で水を引いたらどうか」という話が持ち上がってきた。こうした生活改善への積極的な取り組みが昭和31年3月,後屋敷に簡易水道をひくきっかけとなった。その後,六ツ美南部には3つの簡易水道が布設された。

「簡易水道とは」

深くほった井戸から水をすい上げ,その水を利用してそれぞれの家に送って,使えるようにしたもの。水を出す装置は水道と同じで,蛇口をひねれば水が出る。簡易水道は,住民の希望者で組合を作り,維持管理は組合が行った。

地区 給水開始年月 簡易水道廃止年月 使用期間 給水人口
後屋敷 昭和31年3月 昭和41年12月 10年9ヶ月 165人
定国 昭和31年5月 昭和41年12月 10年7ヶ月 240人
中島 昭和32年3月 昭和41年12月 9年9ヶ月 2800人

井戸水の利点と欠点

(利点)

・夏は冷たく,冬は温かい水が手に入る。井戸水の水温は1年中はほとんど変わらない。

・水道料金がかからず経済的であるが,渇水の時には井戸が枯れることもある。

・災害時にも使用できる。

・矢作川の伏流水があるため,豊富な水源に恵まれている六ツ美南部では,地下水位が高いので井戸は浅く比較的楽に手に入れることができる。

(欠点)

・井戸水は消毒がしてないので,衛生的に問題がある。

・台所や風呂を使うとき,井戸水をくんだり,運んだりする労力が必要である。

・季節によって水量がことなるので,いつも十分に使うことができない。

・井戸水を出す機械(手押しポンプ,モーターポンプ)が故障すると使えなくなる。

・井戸にふたがしてあっても,時には異物(ごみ,なめくじ)が入ることがある。

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上の写真は,境の近江屋さんで使われている井戸(2008.1撮影)です。「悠紀の里2訂版」では,手押しポンプのついた井戸としてで紹介しています。今年10月発行の「悠紀の里3訂版」では電動ポンプのついた井戸として紹介します。